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悩む素晴らしさ

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 ― 自分自身と向き合うことについて

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 社会に出て間もない若者たちから、人間関係の悩みをよく相談される。営業先や職場の先輩上司とどう付き合うか、あるいは苦手な同僚とどう距離を取るか。表面的には別々の悩みに見えるが、その根底にあるものは実は同じだと私は考えている。

「上手く付き合う」ことの誤解

 多くの若者が、周囲や取引先と「上手く付き合っている」と口にする。しかし、その内実をよく聞いてみると、単に相手に合わせているだけであることが多い。もちろん、相手を慮ること、礼節、誠意は人間関係において絶対に必要な要素である。だが、それだけでは足りない。

 周囲や顧客が本当に求めているのは、礼儀正しさの奥にある本心と本気度である。自分自身で本当に悩み、考え抜いた末に発せられる言葉と態度。それこそが、相手の心を動かす。そしてこの点において、年齢差も実績差も関係ない。

 「ある程度知識や経験を積んでから」と考える若者は多い。しかし、いつになれば「満足のいく知識や経験」に到達できるのか、その問いに明確に答えられる者はいない。そもそも人間とは、自分の明日さえコントロールできない永遠の未熟者である。だからこそ、死ぬまで毎日が勉強なのだ。

 未熟なら未熟なりに、わからないならわからないなりに、できる限りの情報収集と他人の知恵を借りながら、その一瞬一瞬を熟慮し、判断し、決断する。その結果として出てきたものこそが、その時点での自分の意見であり、提案となる。周囲や顧客が求めているのは、完璧な提案ではない。限られた環境の中で、自分のために本気で考えてくれる真摯な「同志」の存在なのである。

 単なる仕事上の窓口でもなく、上司へのおべっかでもない。後輩に対しても同様に、猛烈に悩み苦しみながら自分なりの結論を出す姿を見せる。失敗しても、自分で出した結論に対して堂々と責任を取る覚悟。それこそが、自己成長と周囲からの厚い信頼を同時に獲得する道である。

苦手な相手とどう向き合うか

 職場に苦手な人がいて、毎日の出社が憂鬱だという相談もよく受ける。どこにでも自分とそりの合わない人間はいる。相手にも感情があり、こちらをよく思っていない場合もある。だが、その苦手意識や好き嫌いは、あくまで自分の主観に過ぎない。互いの感情は鏡のように、双方が好意を持つか、双方が嫌悪を持つかに傾きやすいものだ。

 であれば、嫌いな相手に対してへつらったり卑屈になる必要はまったくない。心の中で「私はあの人が嫌いだ」と明確に認定し、すっきりさせておけばよい。「仲間を嫌いになってはいけない」「上手く付き合わねばならない」という過剰な意識こそが、自分自身を苦しめる元凶なのである。

 一般的に、嫌な相手の幻影は、こちらの意識の強さに比例して大きくなる。その存在が寝ても覚めても頭から離れないということは、すでに相手の術中にはまってしまっている証拠だ。相手からすれば、それこそ「してやったり」であろう。愛憎とは表裏一体のものであり、同じ土俵に立っているからこそ腹が立つ。だからこそ、その土俵そのものを変える必要がある。

 土俵を変えるとは、相手を見下すことではない。むしろ相手を飲み込むことである。丁寧に、寛容に、赦す。相手の言動に動じず、その存在を風景と同化させるほどにぼかしてしまう。これは単なる「無視」とは違う。無視とは、強く意識した上で目をそらす行為だ。そうではなく、「何か言っているな」「そもそも相手にしていないのだから、仲良くする努力自体が不要だ」という程度に位置づける、それが本当の寛容である。

 人生には、この先もっと大きな困難や幸せが訪れる。他人について考える前に、まず自分自身に向き合い、自分をよく知ること。自分が何を考え、何を求めているのかを、その都度、間違いを恐れず判断し決断する。己の意志が定まれば、自ずと自分の言動や態度が変わり、それが周囲にも波及していく。

 ちっぽけな悩みは、生死に関わるような大きな問題が現れた瞬間に、一瞬で霧散する。そのような重大事が今の自分に降りかかっていないことに感謝し、日々の自己研鑽に邁進し続けること。そうすれば、かつて嫌でたまらなかった相手が、いかにちっぽけな存在だったかに気づき、自らの成長を実感することになるだろう。

 人格の形成こそが、あらゆる行動の基軸である。「どう生きるか」という基本中の基本の問いに、これからも真摯に向き合い続けたいと考えている。

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