幻想からの独立
おかげさまで二十八年。
その間、当然のようにトラブルも発生しました。
しかし、トラブル発生! 織り込み済みです。
それが怖くて運動なんかできやしない。
「ブルって言いたいことも言えねえ」
「こういうこと言ったらダメだ」
今の戦後デモクラシーは、全部そうではありませんか。
理由も何も説明されず、「ダメなもんはダメ」と言われる。
では、なぜダメなのか。
そこを問うことすら許されないのであれば、果たしてそれを自由と言えるのでしょうか。
好きも嫌いも、逐一他人の意見を聞いて、納得してもらわないと好きになってはいけないのでしょうか。
「俺がいい」と思ったら、いいではありませんか。
自分が見たもの、自分が聞いたこと、自分が信じたものを信じる。
もちろん、そこには責任が伴います。
しかし、自分自身の判断まで他人に委ねてしまえば、自分自身の人生を生きているとは言えないのではないでしょうか。
私が二十八年間の運動を通して考えてきたのは、結局、この問題なのだと思います。
人は、自分自身の判断によって生きることができるのか。
そして、自分自身で判断したことに対して、自分自身で責任を引き受けることができるのか。
そこから、すべてが始まるのではないでしょうか。
一 自由とは、自分自身で判断すること
人はよく、「社会に束縛されている」「上司に束縛されている」「先生に束縛されている」「家族に束縛されている」と言います。
「自分には自由がない」と。
しかし、本当にそうなのでしょうか。
違うのではないでしょうか。
もちろん、社会にはさまざまな規範や制約があります。
しかし、それ以上に自分自身を縛っているものがある。
それは、自分自身が勝手につくり出した幻想ではないでしょうか。
「こうしなければならない」
「こう言ってはいけない」
「こう思われてはいけない」
そうした思い込みによって、自分自身が自分自身を束縛している。
だからこそ、そこから独立し、解放されなくてはならないのではありませんか。
自由というものを、誰かから与えられるものだと考えてはいけない。
自分自身で考える。
自分が何をしたいのかを考える。
何を信じるのかを考える。
そして、自分自身で判断する。
そこから始まるのではないでしょうか。
そのためには、人間力を高め、そのような幻想に惑わされぬように地固めする。
私は、それこそが本当の意味での政治運動にもつながると考えています。
二 自分で決めるなら、自分で引き受ける
ただし、自分自身で判断するということは、好き勝手にやるということではありません。
自分で決めた以上、その言葉と行動については、自分自身が引き受けなければならない。
一度吐き出した言葉、一度行った言動に対して、「見ていない」「知らない」と逃げるのではなく、自分のものとして受け止める。
これができればいいわけです。
人間は間違います。
判断を誤ることもある。
未熟だから、失敗することもある。
だからこそ、毎日毎日、試行錯誤すればいい。
間違えたなら、そこから考え直せばいい。
足りなければ、補えばいい。
失敗したなら、そこから学べばいい。
重要なのは、失敗しないことではありません。
自分自身の判断から逃げないことです。
自分で決めたことについて、自分で考え、自分で修正し、自分で次の行動を決める。
その繰り返しによって、初めて自分自身の足で立てるようになる。
それが本当の意味での自立なのではないでしょうか。
三 多数に紛れ込む社会から、自分自身の判断へ
今の社会は、多数が原理になっている。
多いものに紛れ込み、行列をただ並ぶだけ。
「あいつが悪い」
「こいつが悪い」
そういうことばかりではありませんか。
しかし、人間というのは所詮、逃げたいものです。
猛獣が目の前にいたら逃げてしまう。
素手では戦えるわけがない。
これは、人間が生物として持っている弱さです。
だからこそ、まず、その弱さに真正面から向き合い、自分という存在を認識するのです。
自分は何をしたいのか。
自分には何が足りないのか。
自分が目指すものは何なのか。
そこから逃げてはいけない。
自分のロマンに向かい、その現実とのギャップに対して、喜んで挑戦する。
そういう問題意識がなければ、トラブルが起きたとき、それに立ち向かう力は生まれないのではないでしょうか。
トラブル発生。
織り込み済みです。
問題が起きたときにこそ、自分自身の力が試される。
そこにこそ、人生のアドベンチャーがあるのではないでしょうか。
四 未熟だからこそ、答えのない問題に挑戦する
人間は未熟です。
だからこそ、毎日毎日、試行錯誤し、楽しみながらやればいい。
答えがないから面白いんです。
最初から答えが決まっているのであれば、そこに挑戦する意味はどこにあるのでしょうか。
答えのない問題に対して、自分自身で判断し、結論を出し、行動する。
その繰り返しこそが、人間を成長させるのではないでしょうか。
ところが、今の社会では、答えのある問題に正解することが、あまりにも重視されている。
例えば今の学歴社会に君臨している東大・早慶は、答えに間違いがなければ入れる。
丸暗記しかできなかった盆暗どもが、高級役人、政治家になっていくから、答えがない問題に対し、判断や結論ができないではないですか。
もちろん、知識そのものを否定しているのではありません。
知識は必要です。
しかし、知識を持っていることと、自分自身で判断する力を持っていることは同じではない。
本当に必要なのは、答えのない問題に対して、自分自身で考え、決断し、そして、その決断を自分自身のものとして引き受ける力なのではないでしょうか。
だからこそ、未熟でいい。
未熟だからこそ考える。
未熟だからこそ挑戦する。
そして、試行錯誤を繰り返しながら、自分自身をつくっていく。
それが人生なのではないでしょうか。
五 「理性」という名の既存価値観を問い直す
いわゆる「理性」という名の大人の社会。
もとい、政治の話であれば、今の既存価値観たる自由や民主主義、平和を反対したら、否定したら、「こいつはキチガイか?」と言われる。
では、民主主義とは何なのか。
自由とは何なのか。
平和とは何なのか。
そう問えば、分からないにもかかわらず、分かったつもりで頷いているのが、今の社会や大人ではないですか。
言葉だけが独り歩きして、その中身を問うことができなくなっている。
それでは、本当に自由なのでしょうか。
本当に民主主義なのでしょうか。
本当に平和なのでしょうか。
私は、そこを問い直すことが必要だと思うのです。
「みんながそう言っているから」
「世間ではそういうことになっているから」
それだけで、自分自身の判断を放棄してはいけない。
だからこそ、一番感性、真の感情が鋭敏な子供や中高生の感性を大事にしたい。
美しいものは「美しい」って言うんです。
なぜ美しいのか。
なぜ嫌なのか。
なぜ好きなのか。
そこに自分自身の感性がある。
子供というのは純情だから怖いよね。
本音で勝負する。
だったら、我々は本音、本気で勝負しようと。
自分自身の感性まで、自分自身で規制してはいけない。
六 個人の自由から、国家の問題へ
一瞬一瞬を大事にして、一瞬で決断して、判断して、行動する。
そこには当然、責任が発生する。
しかし、その責任を恐れて何も言わない、何もしないというのであれば、結局、自分自身の人生を他人に預けてしまうことになる。
偉そうに言って、問題が起きたら「見てない」「知らない」。
格好悪いよね。
だったら、かっこよくいきたいよね。
言ったことに責任を持つ。
やったことに責任を持つ。
そして、間違えたら、その間違いを認めて次へ進む。
それでいいのではないでしょうか。
そして、これは個人の人生だけの話ではありません。
自分の人生について自分で判断するのであれば、自分が生きている社会や国家についても、自分自身で考えなければならない。
「みんながそう言っているから」
「昔からそうだから」
それだけで、日本のあり方まで他人に預けてしまっていいのでしょうか。
私は、そうは思わない。
だから、ここからは日本そのものについて考えてみたい。
七 人生の問題と日本社会の問題
果たして日本は、誰に臆して「今の戦後の常識」を信じているんですか。
今の常識とは、つまり、
・日米安保条約、国連主導で国際主義。
・穀物自給率三割以下。
といった現実にも関わらず、「平和である」という常識。
こうしたものを、我々は当然のものとして受け入れている。
しかし、そもそも、なぜそれを当然だと思っているのでしょうか。
今の日本は敗戦国家で、戦後デモクラシーを押しつけられている。
何故かというと、負けたからですよね。
しかし、本当の強さというのは、負けても負けても起き上がることです。
一度負けたから終わりなのではない。
負けたからこそ、そこから何を考え、何を目指し、どのように立ち上がるのか。
そこに、本当の強さがあるのではないでしょうか。
八 日本をめぐる既存秩序への問題提起
世界を相手に戦ったのは日本しかないならば、その英霊に対して我々が誠実に感謝の念を抱くなら、単に慰霊するだけではなく、そこから何を受け継ぎ、どのような日本をつくるのかを考える必要があるのではないでしょうか。
日本を敗戦国に貶め、永久に敗戦国であり続ければ、今の連合国、いわゆる国連が主張する秩序が成り立つ。
そう考えるならば、なぜ日本だけがその枠組みの中に固定されているのかを問い直す必要があります。
NPT核条約、日米安保条約、そして西洋有利な貿易WTO。
日本はさまざまな国際的枠組みによって、がんじがらめにされている。
つまり、国連は日本を包囲する機関であり、日本が目覚めることを世界は怖がっている。
私は、そうした問題意識を持っている。
だからこそ、日本を真の大国とするためには、国民に真の愛国心と郷土愛をつくる必要がある。
そして、その前提として、まず自分自身を真に愛することが必要なのではないでしょうか。
九 自己愛から愛国心へ
自分を愛することのできない人間が、自分の住む土地を愛することができるのでしょうか。
自分自身を否定し続ける人間が、自分の国を誇りに思うことができるのでしょうか。
私は、まず自分自身を真に愛することから始めるべきだと思う。
自分自身を認める。
自分自身を鍛える。
自分自身の人生を、自分自身の判断によって生きる。
その上で、自分の周りにいる人間にも幸せになってもらいたいと思う。
そして、自分の周りだけではなく、日本中の人間に幸せになってもらいたい。
さらに、日本だけではなく、世界中のみんなに幸せでいてもらいたい。
そのぐらいのナルシズム。
これこそが真の平和への道ではありませんか。
自分や日本を愛することができない社会。
しかし、それは日本人が勝手に洗脳された幻想なのだ。
なぜかといえば、目覚めた日本が怖いからだ。
だから日本が真の強さや愛というものに、全国民が覚醒し、真の民族主義国家が出来上がれば、みんなブルッちゃう。
私は、そういう日本を思い描いている。
十 自分自身の人生から始める
しかし、最初にやらなければならないことは、日本を変えることでも、社会を変えることでもない。
まず、自分自身を変えることです。
素晴らしい自分の将来を意識する。
自分自身の中にある臆病な幻想を打破する。
自分は何をしたいのか。
何を信じるのか。
何を目指すのか。
そして、そのために何が足りないのか。
それを自分自身に問い続ける。
そこで初めて、自分のロマンと現実とのギャップが見えてくる。
そのギャップから逃げるのではなく、喜んで挑戦する。
それが、人生のアドベンチャーなのではないでしょうか。
死に対して直面することから逃げる戦後デモクラシー社会に、真の暴力、真の維新を見せつけてやろうではありませんか。
共に戦ってみましょう。
ただし、その前にやるべきことがある。
自分の人生の勝利者となることです。
世間の前で胸を張るには、己自身の人生の戦いに勝利しなければならない。
それは、他人を打ち負かすという意味ではありません。
自分自身の弱さから逃げない。
自分自身の幻想から逃げない。
自分自身の判断を他人に預けない。
そして、自分自身で選んだ人生を、自分自身の責任において生きる。
その積み重ねこそが、人間を強くするのではないでしょうか。
おわりに――自分自身の人生から、社会へ
二十八年という時間を振り返れば、トラブルもありました。
批判もあった。
思い通りにならないこともあった。
しかし、それが怖くて運動なんかできやしない。
トラブルがある。
だからこそ考える。
未熟だからこそ試行錯誤する。
答えがないからこそ、自分自身で判断する。
そして、自分自身で判断したことについて、自分自身で引き受ける。
私は、そこに人間としての強さがあると思う。
自分自身を愛する。
自分自身を鍛える。
自分自身の人生を、自分自身の足で歩く。
その上で、自分の周囲にいる人間を幸せにしたいと思う。
さらに社会を、日本を、そして世界をより良いものにしていきたいと思う。
だからこそ、まず自分自身が人生の勝利者になる。
自分自身の人生に勝利した人間が、その光を周囲へ与えていく。
一人の人間の自立が、やがて社会の力になる。
それこそが、私の考える政治運動の出発点なのです。
素晴らしい自分の将来を意識し、幻想を打破し、答えのない現実に挑戦する。
一瞬一瞬を大事にして、自分自身で判断する。
そして、自分自身の人生に責任を持つ。
その上で、自分自身の生きる社会と国家についても、自分自身の責任において考える。
これこそ今の日本に一番必要なことではありませんか。
あなたの人生の勝利万歳。