同志を信じ、運動を信じ、己を信じよ
異端こそ維新の原動力
私が二十九年前にその同盟を立ち上げた時、戦後すべての世界を敵に回し、戦後常識を覆滅してやろうと志したのであります。
その為には、世間に服従することを拒絶し、世間から明確に異端であるべきであると決意した。
わが運動の冠は「超国家主義」。
なんという美しい響きであろうか!
戦勝連合国側に立つことができた自由主義者や左翼は、彼らがせっかく手に入れた戦後エセ平和世界を維持させんがため、敗戦国側に甘んじた軍国主義、ナチズム、ファシズムなどにあらん限りの罵詈雑言を浴びせた。
まさに枢軸国側の民族主義をいまだ悪魔として恐れるあまり、二度と開封してはならない最強にして最恐のタブー呪文こそ、「超国家主義」に込められているのであります。
だからこそ私は、戦後平和主義者どもが蛇蝎の如く憎悪すべきこの呪文を、敢えてわが運動の冠に高く掲げた。
眉を顰める世間の横っ面を叩き、果敢に挑戦してきたのであります。
現在に至るまで二十九年間、わが党は御茶ノ水駅頭での活動を継続して実施している。
私が二十九年前、何故、御茶ノ水駅頭を聖地と熱望したのか。
東京のど真ん中であること、交通の便が良いことなども理由のひとつではある。しかし、それ以上の理由が私の脳裏には存在していたのであります。
即ち、東京神田とは、六十年代、七十年代の学生運動の頃から過激派左翼学生運動のメッカであり、その中でも御茶ノ水駅頭は「神田カルチェラタン」の異名で呼ばれた解放区、すなわち左翼過激派の無法地帯であった。
その流れをくんだ左翼過激派が同地を聖地として、街頭宣伝や示威行為を依然として我が物顔で繰り返していた。
私は、まさにその本拠地に殴り込みをかけることから運動闘争を開始したのであります。
新しい団体がその存在を知らしめるために、そして己の意志と覚悟を貫徹するためには、「敵中に突撃しメスを入れるんだ!」という意気込みが必要だった。
その意気込みを胸に、私は御茶ノ水に登場したのであります。
わが突撃隊が隊列を組んで駅頭に近づいた瞬間、駅頭に展開していた敵部隊はザーっと円陣を組み一塊となり、隠し持っていた何十本もの鉄パイプをガシャガシャ取り出し、一斉にわが隊列にむけて威嚇をする。
そこで戦闘開始だ。
小競り合いがあちこちで発生し、警官が流入する。
このような光景が毎回続いたのであります。
相手から見れば、「あんな右翼どもに我々の聖域御茶ノ水を渡してたまるか!」と一生懸命だったのでありましょう。
だからやるのです。
何度も繰り返すうちに、駅頭にわが突撃隊の姿が見える前から警察隊が待ち構えるようになった。そして睨み合いの中で、双方の駅頭集会による喧騒の大狂演が続いたのであります。
私は、この闘争を通じて一貫してひとつの意志を貫いてきた。
現在の一般常識で考えている頭の中を変えてやらねばならない。
それも言葉だけではなく、行動で示してやらなければならない。
こういう意志でわが党をつくり、展開してきたのであります。
今や御茶ノ水は右翼のメッカと称されているぐらいであります。
しかし、私はそこにあぐらをかくつもりはない。
新たな思考、新たな挑戦を求め、次から次へと我々は進む。
我らは、このような運動体なのであります。
世界観闘争としての運動
わが党の発足と同時に設立されたのが突撃隊であります。
その独自の隊服と腕章を身につけ、大隊旗を翻し、果敢に抗議、行進を展開してきた。
目立てば当然、非難中傷、罵詈雑言の嵐が降り注ぐ。
しかし私は、この十字砲火こそ、わが突撃隊の存在に顔をしかめる俗論からの「歓迎」の印であると考えてきた。
実に快感!
実に爽快!
我々は、これら非難中傷こそを最大のエネルギーとして、二十九年間突っ走ってきたのであります。
私の考える運動とは、単に時局や政策をこねくり回すものでは断じてない。
その問題の根底にあるもの、問題の本質をしっかりと把握し、それ自体をひっくり返さなければならないのであります。
だからこそ、これは現今価値観を転覆する世界観闘争なのである。
まさに「すべての世間」を敵に回す。
これこそ維新に他ならない。
幕末維新の英雄・高杉晋作は、孤軍率先して功山に立った。
時代を超越した吉田松陰先生は、一人で獄死された。
私は、歴史を振り返る時、数の大小ではないということを強く感じるのであります。
一人ですら何もできぬ者が、いくら何千、何万人集まろうが、大したことはできない。
そのことを歴史は雄弁に物語っている。
自分を信じられぬ者は、すべての責任を背負い、率先垂範して突き進むことなどできぬ。
当然、皆を従え、果敢に指揮をとることなど断じてできるわけがないのであります。
俺一人でもやる!
この自我を信じ、自己責任を全うせんとする断固たる意志こそを持った人間に、周囲がついてくる。
まさに、自分自身を愛し、信じ切る。
これこそ、周りの人間を愛し、祖国を愛し、全世界を愛する土台となるのであります。
怒りを失った社会
本気で彼我を愛することができる者こそ、憎き敵に対し怒髪天の怒りを爆発できるのであります。
この純粋な感情の発露こそ、生きている証拠にほかならない。
翻って、現今わが国の世情を見れば、本気の怒りを忘れている。
喜怒哀楽の素直な感情が、「人権・平和・自由・民主」などの得体の知れぬ偽善によって眠らされている。
その結果、一億評論家の偽善者となり、皆小悪に走り、より悪い奴がのさばる社会が横行しているのである。
動物でいうと、牙爪が剥がされ、全て盲羊にしてしまうようなものだ。
互いを小突き、不平不満を言いながらも、一匹の番犬に怯え、諄々と囲いの中に入っていく。
反撃する意欲さえ奪われ、周囲の羊が次々殺されようが、己はまだ大丈夫との根拠なき幻想の中、できるだけ静謐に服従することだけを「安寧」享受の最善策としてきた。
「見ない・言わない・聞かない」。
ただ危険を回避するよう声をあげ、念じることを最大の平和活動とする極楽とんぼに、一体何ができるのか。
日本民族の再起をめぐって
戦後、戦勝国に頭を撫でられている状態では、二度と日本は立ち上がらないだろうとする「対日奴隷化政策」が世界中で展開され続けている。
何故なら、戦勝国は知っている。
日本民族の真の強さを。
日本民族は古来から海外派兵し、戦争で勝ってきた畏怖すべき武士であることを。
その日本民族の「暴力」を心底から恐怖しているのだ。
私は、これを国内においても全く同様に考えている。
大化の改新、建武の中興、明治維新を持ち出すまでもなく、悪い奴は殴る。葬る。
それが日本の堂々たる文化であったことを忘れてはならない。
しかるべき国家危機の際、求められるのは君側の奸を屠る暴力に他ならない。
そのことを、はっきりとわが国史から学ばねばならないのであります。
われわれは、形骸化した右翼左翼やら保守革新などにとらわれた運動を展開するのではない。
すべて原点に回帰したダイナミックなロマンに向けて邁進する。
この運動は、新しく一歩を踏み出すが故に、当初、現今では誰からも評価されることなく、甚大な屈従を強いられるかもしれない。
だが、この圧倒的世間の俗論を前にしてこそ、よりエネルギッシュに、より歓びを以て、闘争心を奮い立たせることができるのであります。
己自身との闘争
私は、断固耐え抜き、前進し続ける覚悟と勇気を持つ者こそ英雄であると考えている。
身近に妥協した砂上の楼閣の軽薄なアイドル風情ではなく、強力な根を張った支柱に支えられた重厚なスターとならん。
しかし、世間を敵にする前に、最大にして最強の敵である己自身に勝利せねばならない。
外に敵を求めるだけでは何も始まらない。
まず自分自身を信じ、自分自身に対する責任を背負い、自分自身の人生闘争を展開する。
その覚悟がなければ、同志を率いることも、運動を貫徹することもできないのであります。
私は、これまで二十九年間の運動を通して、このことを繰り返し確認してきた。
己の人生闘争を展開する同志として、ともに隊伍を組み、邁進しようではありませんか。
「同志を信じ、運動を信じ、そして何よりもまず、己を信じよ!」
これこそ、私が考える突撃隊員の第一義なのであります。