運動にとっての勢いとは
運動にとって外的側面の勢いも必要です。勢いある所に大衆は雪崩れ込み巨大運動となるは古今東西の歴史が雄弁に語っています。しかし大運動を導く勢いはそれを起動させるに相応しい実体あって初めて実現できるは当然です。表面上の勢いに惑わされることなく崇高ロマンに向かって邁進する冷徹実体こそ最も重視しなくてはなりません。わが運動ではその実体を「強固な指導者原理」「鋼鉄の結束」「神秘性とダイナミックな行動原理」と考えています。一糸乱れぬ厳格規律と責任体制に立脚された過激性、成長発展し続ける個の力量の集合体としての組織力、緻密計算に裏打ちされたダイナミック行動原理こそ勢いを自らの力で作りだし存分に力を発揮させる要素に他ならないからです。
発足以来、一貫してこれら実体構築を常に意識し追及し続けています。わが大ロマンの前には果てしなくも遠大な未解決問題が山積しているは当然。世界史をも変革せんとするわが世界観に終着点はあり得ないのです。有機体たるわが運動はその成長・力量に応じ達成すべく目標が用意されており、一段達成されると瞬時に次段階に向かって前進し続けることが義務付けられています。休憩など不要のわが運動にとって、新たに挑戦し続ける意欲と野望こそ、気迫と勇気に裏づけされた勢いであると自覚しているわけです。わが新文明闘争の遠大な行軍の前には、路傍の事象に一喜一憂している暇は断じてあり得ないのです。故に、わが運動の「勢い」とは浮ついた派手に拘泥する必要は断じてなく、今後殺到する艱難辛苦をものともしない強固意志それ自体を指すのです。まさに強力指導者組織の構築発展を、自ら確信できることが「勢い」であるわけです。
戦後ボケ平和の中で忘れられた重大事に、死に対する意識低下があります。この場合の死とは「死は誰でも怖い」といった通り一遍の意識ではなく、途中下車不可の死への道を「駆け抜けてやる!」という強烈な覚悟即ち死生観を指すのです。この「必死の王道」に乗った以上はそれ相応の自覚をもって歩武を進めることが人生ではないかと思うのですが、なにやら現今は、将来に不安を抱くも末法思想の如く不安を振り払うが為に刹那的享楽に明け暮れる無節操が跋扈する。このような死に対するおざなり意識は必定、生に対する無為無策に直結せざるを得ません。戦後ボケ平和の汚泥の中、死生観をなおざりにした浮遊物と化したデモクラシー信奉者は、何に付けても「無責任・無自覚・無気力」を地で行き、挙句は祖国の生き死にさえ外国勢力に委ねんとする言語道断の売甚至是的策動を行ってきたわけです。このような三無主義的売国奴に取って代わって、祖国と己を狂愛する人材を置きかえることなしには断じて祖国の再建は実現出来る筈がありません!わが運動はこの見地から、政治運動は即ち人間変革運動たるとの確信から、責任指導者育成・自己変革・自尊心確立に立脚した青年運動を展開し邁進してきました。天下国家・世界を変えてやろうとする大前提は、己自身の変化が国家変革へ直結するというロマンと野望に他ならないからです。わが運動は、現状満足と現状維持を唾棄し、失敗をも恐れぬ「新たな挑戦」を同盟員・会員に要求し続け、お陰で多くの人材が己の限界をものともせず、全力でより高い要求に挑戦し続け、自らを鍛え自らの成長を自覚できているのです。
個人でできること、組織でしかできないことを明確に峻別し、それぞれ計画し実行することが運動拡大・権力奪取に不可欠であるは言を待ちません。また、その組織力を動かすものは、唯一明確な責任体制の確立以外ありません。責任者の責任範囲が明確化され指示命令系統が確立されずんば、絶対に強力な組織などは確立されるはずがありません。故に二人いれば主従関係が出来上がり即、組織活動ができる仕組みこそ数百万単位の大組織の原点であります。わが運動の指導者原理はあらゆる範囲での責任者の所在と範囲をはっきりさせ、その指導の下で運動に邁進できるシステムを指すのです。ここから明らかにされることは、各指導者は責任を負うべき肝を持たねば成らず、その断を下すべく力量と率先垂範の意志行動が断乎要求されるということであります。戦後デモクラシーの歪んだ多数決民主による無責任と他人任せが現今世情を如何に混迷させていることか!わが運動は、現今跋扈する「弱者同盟」や「互助会」を激しく唾棄し、強力な個を生み出す指導者組織を目指し、「組織への依存」を排除し「組織への貢献」の意志ある人材を強く要求し続けたがため、多くの志士が参画しております。
己を愛する者こそが他人を愛することが出来る。己を成長させたい者こそが他人社会を発展させることができる。現今自由民主主義の虚構の社会において、如何に近視眼的な価値観しかあり得ないか!短所にいつまでも呪縛された己の小市民的価値観を怒号と憎悪とともに振りほどき、長所のみを見据えた大ロマンに生きる戦士たれ!貴兄の自尊心、勇気覇気を醸成させる原動力は、一に貴兄自身の願望の中にあるを強烈に自覚せよ!その意志とロマンを具現化させ天下に己の存在意義を知らしめるべく野望の持ち主こそ、わが運動の隊伍を組む資格があるのです。いま周囲の意見に惑わされ右往左往する人生に訣別し、自らの意志を鍛えよ!わが同盟の鉄の戦列に参画せよ!黒色隊服に身を包んだ凛々しい貴兄の雄姿が想像できるではないか!
あなたは意志を持っていますか?
1. 人は変われど運動は普遍
同盟では、毎回、これが最期となっても悔いのない最高の運動をすべしとの指針の下、各員「24時間・365日」運動を展開しています。発足以来、毎月東京御茶ノ水で二回、大阪天王寺・難波で一回の街宣活動、平成9年HP開設更新、平成12年から日刊メルマガ「日本の意志」。現在ではツイッターなどの発信媒体を継続しています。同盟はわが超国家主義世界観の普及と実現を目指した運動を展開しておりますが、運動の拡大と運動への支援共感を獲得するための絶対不可欠要件は、その内容と同時に運動に携わる同盟員・会員の直截的な本気度にあると信じて疑いません。
そのため、同盟員・会員個々人の運動・個生活・職場学窓の別なく常に本気で考え生きていく背中が肝要であり、それを支える柱と同志の存在こそ絶対要素と確信します。この間には様々な人が入っては去っていきました。運動体とは新陳代謝を繰り返し成長していく細胞体であると認識する私は、この流れは至極当然と考えており、その時期・時代に必要な人材が必然参集したものと今でも感謝しております。
機関紙もその一環として、常に実体の伴った言語をぶつけるのであり、決して空虚な綺麗事や思ってもいない評論などは断じて掲載を許してはきませんでした。従って100回のすべては魂の篭もった本気本音であり、周囲の賛否両論を惹起させた波紋こそが財産であると自負するところです。だから、144回の機関紙にはその時期その人材ならではの特徴があり非常に歴史を感じます。
初刊があれば10号、50号、そして100号は想定内であり、100号に浸っている暇もなく次号を更に最も素晴らしい内容にすべく発展継承させねばなりません。また、運動全体として私が強調したいのは、これを個人ではなく組織として確実に継続機能している点です。質量の異なる多くの人材を規律ある使命感を持たせ着実に継続させること、まさに「人は変われど」組織全体として不動の行動機能を有してきたことは大いに強調し感謝したいですね。
2. 意志なき戦後個人主義
運動は有機体であると。有機体とはそれ自体が生き物であり、それを構成する細胞は刻一刻新陳代謝します。外見からは何も変わらないように見えても、実はその中では多くの細胞が日々生まれては死んでいくことは自然の摂理であります。同盟運動もまさにそれと同様、その屹立した超国家主義世界観の下に、意志を持ったさまざまな細胞が集散しながら構成し成長している有機体と考えて運営しております。
戦後わが国では「個人主義」が喧伝されていますが、私からみれば現在わが国の実情は、個人の意志も自由も平等も去勢されたと痛感しています。中途半端な自己保身が横たわっているだけで、目の前の小益を争って取り合う小市民的自由・民主主義に他なりません。奥深い山中で個人一人で生きるならばそれはそれで良いかもしれませんが、他人と共存することが不可欠な人間社会であれば、他人全体(社会・国家・世界)の自由・権利を理解した上での個々人の自由・権利を享受せねばならないことは至極当然です。更には個人の自由・権利を自覚すること、即ち自身の意志の存在がそこには必要となるわけです。
個人主義を「謳歌」している現今社会では、あまりにも個人の意志が稀薄であり、個人の存在意義すら自覚できていないことは、日々繰り返される惨劇が証明しています。個人の存在意義を自覚するとは、即ち国家社会の存在意義を探求して得られる信条に他なりません。戦後デモクラシーというアメリカナイズされた自由・民主主義によって毒された国家社会観の欠落こそ、畢竟、個人的自由・民主主義の否定、そして自己存在否定に直結することを、いま改めて覚醒せねばなりません。
初めから聖人君子など存在しません。一般受けする成否を論ずる前に、貴兄自身の探求する正悪とは何であるか!今まで培われてきたあらゆる知識・感情を土台に瞬時判断した「意志」こそ、その時の本音であり大事にすべきであり、それを踏み台として新たな意志の発見を探求する勇気を奮わせることこそ、素晴らしい人生、そして偉大な祖国再建が建設できると確信致します。
近頃の「維新」の乱発や「政治改革」など、表面的空論をいくら繰り返しても、大本である戦後デモクラシー(現今の自由主義・民主主義)を覆滅することなしに真の維新変革は不可能であることを歴史から明確に学ばねばなりません。
最後に、同盟や盟友会に入隊・入会希望者には、私は常に述べている言葉があります。
「あなたは、あなたの意志を持っていますか?」