top of page
現実現状との葛藤――自由・現状維持・新文明闘争

 

一、現状維持と現状打破

現実現状との葛藤。それは何も政治経済などに限って身構え意識することではなく、誰もが日々生活で感じ喘いでいるものである。

「現状維持と現状打破」。現実の表面仕様や結果だけをとらえ、この賛否で両者を区別しているに過ぎない。

この考えも一部正しい。が、現状打破とは小手先変面で新たな答えを置き換えることではなく、現状に至る因果から導き出る本源をしっかりと把握し、その土台が朽ちているとなれば叩き壊して再建することを厭わないのである。

まず重要なことは、第一に、眼前に広がり己が自覚する「現実」の本質を本当に理解しているか、第二に、現実の先にある将来像、いわゆるロマンの姿を具体的にスケッチできているのか、ということである。

残念ながら現状維持の実態は、そもそも現状の正体を知ろうとしないばかりか、これに目を合わせず現実からの逃避に汲々とするものであり、わが命に代えてもこれを護り抜こうとする覚悟なき「現状の虜」に過ぎぬ。

 

二、「自由」という抽象概念

そこで、己が依拠する現実の本質を自分なりに理解把握しているのか? という第一の課題がある。

大方の者は、「一応理解しているつもり」だが、その内容を問えば「よくわからぬが、しかし皆が正しいと言っているらしい」程度に過ぎないのだ。

私がよく打倒すべき対象フレーズに「自由、民主主義、平和」があるが、これなどは「人類の金字塔」「万人が守らねばならぬ正義」が常識中の常識となっている始末。

今回、この「自由」に焦点を当てて論じてみよう。

万人に投網掛けるが如く、捉えどころのなき大抽象的概念である「自由」など、果たして万人共通の理解など絶対あり得ぬことは、それこそ万人がしぶしぶ認めるものである。

即ち、「万人自由などあるはずがない」。

更に言えば、「強者の自由あっても弱者の自由はない」「他人の自由あっても己の自由はない」が一般的ではないか。

「言論の自由」「信教の自由」「結社の自由」に対して、「暴力の自由」「異教攻撃の自由」「反社会的結社の自由」はない。明らかなる犯罪行為ならいざ知らず、犯罪までにはいたらぬグレーの自由範囲に対して、明確な定義など設定できるはずもなく、あくまでも時の為政者や司法およびマスコミのそれこそ常道である。

ならば、「万人共通の自由」などこの世に存在したためしなく、あくまでも性善説に立脚した日向ぼっこの願望の域を出ていないものである。

ゆえに、この抽象自由を否定し、現実自由の成立と現状を理解することで、その是非を問わねばならないのである。

 

三、戦後日本に自由はあるのか

特に「日米安保条約、駐留米軍、米軍核兵器」等に支配される米軍政下日本の一体どこに日本の自由がありえるのか?

アメリカの対日支配の自由に束縛された日本は、まさに奴隷自由でしかあり得ず、これを「自由」の一概念で無条件賛美するほうが気が知れぬ。

その意味で、私は明確に「戦後日本に自由はない!」と断言し、戦勝連合国による国内外の「対日支配の自由」を断固否定しこれを打倒することを主張する。

少なくとも「自分の足で立ち、自分の目で見て、自分の口でしゃべり、自分の手で作り上げる」真の独立主権国家たらんとする強力な自由意志を持たずしては民族死滅必至と確信するものである。

「アメリカに支配される奴隷の自由」によって甘い汁を吸い続けてきた戦後日本の為政者、マスコミおよびハイエナ財界どもは、この奴隷現状を是とし維持を目論んできた。まさに「日本民族の自由」に反逆する売国奴、国賊以外の何物でもない!

 

四、「現状維持」という思考停止

この対日奴隷化政策に飼いならされてきた国民は、「奴隷現実」に諦め、更に今では、「鎖で縛られないと落ち付かない」「自分から檻の中に入って寝る」のが健全な一般常識と陥っている。

そこには、取るに足らぬささやかな不平不満はあるにはあるが、「脱獄」「奴隷解放」などの大それた気概も気力も喪失させている都合の良いフレーズこそが「現状維持」にほかならない。

「己の自由とは何か?」、「自由の本源とはなにか?」など「現実」に対する疑念を思考すること自体タブーとされている現在日本において、「現実」を探求することは「危険思想」となり、「社会の魔女狩り」を恐れて思考回路を停止させることを「常識」としてきた。

繰り返す。現状を理解し、これをわが命に代えても死守する気概覚悟があるのであればいざ知らず、現状に諦観屈服し、これに抵抗することなしに処刑場の列に並ぶかのごとき受け身の傍観的現状維持こそ、民族に対する最大の共犯者であると認識すべきである。

現今日本の現状維持の本質とは、まさに現実からの思考停止、現状逃避に他ならぬ犯罪行為であるのだ!

 

五、人類を取り巻く自然という「現実」

現在、世界的には相も変わらず人類同士の殺戮や戦争が間断なく惹起する。人類が依拠せざるを得ない地球環境をも破壊せんとする無知無能の自殺的行為が留まるところを知らない。

だが、二年前からのシナ肺炎(新型コロナ)の全世界的跋扈で、それまで人間こそが地球上の主であるかの大口叩いてきた「ヒューマニズム自由」などは「ウィルス自由」の敵ではなかったことがものの見事に暴露された。

人間の独善横暴が自然・異次元世界に対する軽視無視しているように見えるが、実は、自然・異次元世界に対する畏怖が、人間の独善横暴を演技させているに過ぎない。

即ち、そこには自然・異次元の現実に対する逃避行為があり、真正面からこれらに向き合い、対処することは絶対敗者を意味することが明確であるため、敢えてこの難敵から目を瞑り、その存在を認めることから逃避しているに過ぎないのである。

 

六、西洋近代文明と「自然の自由」

「近代・西洋・キリスト教」文明の白人帝国主義「自由」に非白人「自由」が一時的に蹂躙屈服されたことで、西洋白人の東洋自然に対する自由の勝利とはき違えたツケがいま、怒り狂った「地球自然の自由」の猛反撃によって人類が瓦解の淵に立たされていることを、どれほど理解できているのであろうか!

「ワクチンの製造?」「人類の叡智?」「科学があるから人類は大丈夫?」

まさに自然・異次元の一体何を知っているのか? その一端さえ把握できていない輩が何をもってこれを打勝とうとするのであろうか?

まさに根拠なき虚栄虚飾をかなぐり捨て、己の弱さ無智含めた現実を真摯に自覚し、無限なる自然・異次元世界に拝跪し、厳粛に生き残りに邁進すべきであり、それを導くものこそ、わが神道である。

 

七、神道精神と新文明闘争

古来より日本は人類は自然の中の一端要素に過ぎぬとし、「万物に神が宿る」の崇高な自然中心の超人類的思考を神道として脈々受け継がれてきた神の民族である。

その崇厳なる世界観に立脚する世界人類救済の世界史的使命をいまこそ、天下世界に向けて発動しなければならない!

万物すべての神の自由の前に、人類の横暴自由を抑制し、地球および人類の生き残りのための死活的自由を追求すべく新文明闘争に踏み出さねばならない!

為に、神道精神による日本中心とした世界新秩序を建設し、すべての人類の共存共栄。そして、自然自由に拝跪する人類自由の実現にむけた戦闘を開始せよ!

民主主義とは何か

――美的感覚と文明観から考える新たな価値観

​

「民主主義」という言葉への疑問

「同盟は民主主義を肯定しているのですか? それとも否定しているのですか?」という質問を、私はよく見聞きする。

私はこれまで、「民主主義」を『君主』の対義語として認識してきた。しかし現在、その定義や解釈の齟齬を利用した「戦後デモクラシー」のレトリックに、多くの現代人が毒されている現状を危惧している。

そもそも民主主義とは何なのだろうか。

我らがいう民主主義理念とは、民族共同体である。一方で、戦後デモクラシーとはアメリカンデモクラシーであり、近代の民主主義とは白人文化の民主主義である。この三者の違いを理解しないまま、「民主主義」という一つの言葉ですべてを語ってしまうことに、今日の混乱の一因があるのではないか。

我々が目指すものは、国家国民の至福、さらには全世界の共通の至福を探求することである。その意味において、我が超国家主義世界観こそが、この課題に向き合うものだと考えている。

​

近代民主主義を構成した思想

現代人は、ルソーやモンテスキューらを近代民主主義の思想的源流として認識し、さらにプロテスタント教義や利権誘導型の反動左翼などとも融合した複雑な思想体系を、あたかも普遍的な価値観であるかのように受け入れている。

だからこそ、一つ一つを分解して考える必要がある。

そのためには、大本である白人文明が拠り所とするアリストテレス、ソクラテス、プラトンに代表される古代ギリシアの「高度な市民社会」の偽善を、まず暴かねばならない。

その延長線上にモンテスキューやルソーが位置している。そして、それらの偶像を絶対視する近代西洋キリスト教信仰もまた、海賊・盗賊行為によって財を築き、その財によって作り上げた産業革命、さらには近代兵器によって他文明をねじ伏せた悪行によって、後から正当化されたものに過ぎないのではないか。

ギリシア・ローマ文明という「現代文明」の源流

古代ギリシア文明にまで言及して、その価値観を問い直そうとする人はなかなかいない。

しかし、ギリシア文明を吸収し、さらに発展させたローマ文明と合わせ、この二つが「現代文明」の源流として扱われていることを考えれば、そこにどのような文明観が形成されてきたのかを検証する必要がある。

そこから、ギリシア・ローマ文明=善、オリエント・アジア文明=悪の専制国家、という図式が生まれ、それが長く信奉されてきたのである。

​

西洋文明と「人種」の発明

近代に入り、「キリスト教」のアンチテーゼとしてニーチェがゾロアスターに注目し、さらにナチスが北欧神話やチベット・ラマ教に目を付けたことも、こうした文明観の対立と無関係ではないのではないか。

一方で、日本が「名誉白人」と称されることを栄誉とした歴史も見逃すことはできない。

また、北エジプトを含む中東地域の人々が、西洋白人のように描かれたキリスト像との整合性を持たせるために、コーカソイドやアーリア人といった人種論が展開されたことも、近代における人種観形成の問題として考える必要がある。

ここでは、必然的に人種論や人種差別の問題にも触れることになる。

​

名誉白人に浮かれる日本

美的感覚が文明を左右す

人種差別の根底にあるもの

​

私は、人種差別の主な原因は、究極的には美的感覚にあるのではないかと考えている。

もちろん、生活教養水準や武力能力なども関係する。しかし後者についていえば、長らくオリエントが圧倒的に優位に立っていた時代が存在した。

それが、ほんの身近な近代に入ってから、欧米白人が強盗・殺戮・侵略によってその立場を逆転させ、あらゆる基準を白人に都合の良いものへと決めていったのである。

特に重要なのが、美的基準である。

「美」の基準はどのように作られたのか

野蛮なサルから上級神へと進化するという、実にビジュアル的にもイメージしやすい「簡易明快」な進化論的図式を持ち出し、そこに人種を当てはめていった。

十九世紀には、生物だけではなく社会進化論も特に盛んになった。

人間社会の発展を単純な進化の階梯として捉え、そこに文明や民族、人種の優劣を重ね合わせる考え方は、複雑な歴史を「簡易明快」に説明できるという理由から受け入れられていったのである。

しかし、美的感覚とは本来、時代とともに変化するものである。

ところが、白人の圧倒的影響力の支配下に置かれている現今世界では、特定の時代・地域に形成された美的基準が、あたかも人類史上普遍のものであるかのように受け入れられている。

​

日本に求められる「覚醒」

これこそが、我々が改めて問い直すべき問題ではないだろうか。

そして、これを変化させることができるのは日本ではないかと私は考える。

だからこそ、白人は日本を有色人種の中で最も白人化したのではないか。

有色人種の中で最も白人を崇拝し、白人の美的感覚に浸っているのが日本であり、他の有色人種は「日本がそうなら、従う」という立場を、実は取っているのではないか。

ならばこそ、日本が覚醒しなければならない。

復古ではなく、新たな価値観の創造へ

ただし、ここでいう覚醒とは、何もかも昔に戻れというような時代錯誤を意味するものではない。

重要なのは、過去をそのまま復古することではなく、新たな価値観を自信を持って作り上げることである。

それは、単なる懐古主義でも、過去への回帰でもない。

我々自身の文明観、美的感覚、そして人間観を改めて問い直し、既存の価値基準を相対化した上で、新たな価値観を構築していく。

これもまた、新文明闘争の一環なのである。

自主独立国家建設と新文明闘争

 

自主独立の精神――まず自分自身との約束を守れ

われわれの運動の目指す第一段階は、自主独立国家の建設である。

だが、その実行者自身が、自立した人生を常に自覚して生きているのかが肝心である。

その典型が「約束」である。

一般に約束とは、相手や社会規範に対して遵守する責任を負うものであり、違反すれば咎められ、刑罰を受ける。だからこそ、罰を避けるために約束を守るというのが一般的な姿であろう。

しかし、本来の約束とは、他人や社会の顔色を窺って守るものではない。

一度、自分自身が納得し、遵守すると決断したならば、その瞬間から発生するのは、何よりも自分自身との約束遂行責務である。

相手が忘れようとも、社会が反故にしようとも関係ない。

約束を守ることは自己存在の証明であり、約束を破ることは自己否定にほかならない。

このような強烈でストイックな自己責任の精神こそ、己の人生を切り拓き、明日をも知れぬ阿修羅を堂々と驀進するための精神的支柱なのである。

ところが戦後デモクラシー社会では、他人や他国の顔色を窺い、大勢の流れに身を任せることが「大人の対応」とされる。

多数の中に逃げ込む者が「正義者」となり、多数派に逆らう者は「異端児」「反逆者」とされる。

自立自発は民族覚醒につながるがゆえに抑えられ、自己否定と他人依存を正義とする多数決原理が横行している。

特にわが国には、

  • 戦後の対米依存

  • 対国連・戦勝連合国依存

  • 「白人・西洋・近代」文明依存

という三重の他力依存が存在する。

自主独立国家を建設するには、まずこの他人依存の精神そのものから脱却しなければならない。

 

近代西洋文明と科学万能主義の限界

近代西洋文明は、自由・平等・博愛を掲げ、世界を大きく変えてきた。

その文明の優越性を支えてきた中心的理念が「科学」である。

しかし、われわれはここで問わなければならない。

科学とは、本当に人間が理解できるものだけをもって世界のすべてを説明できるのであろうか。

西洋近代文明は、自らの理解できるものを認め、理解できないものを迷信や野蛮として退ける傾向を持った。

その結果、自然を人間が理解し、制御し、利用する対象として捉える思想が形成された。

そこには、

自然 < 人類 < 西洋近代文明

という人間中心的な世界観が存在する。

科学万能主義とヒューマニズムは相互に支え合い、人間を自然の頂点に置く思想となった。

しかし、人間が自然を完全に理解し、支配できるという考えには限界がある。

自然には、人間の知識や科学では説明し尽くせない現象が存在する。

われわれが見直すべきなのは、まさにこの自然そのものの力と、人間の認識を超えた神秘性である。

近代西洋文明が「魔術からの解放」として切り捨ててきたものを、われわれは改めて問い直す必要がある。

 

「近代西洋幕府」を覆す新しい黒船――神道精神

江戸時代、庶民にとって徳川幕府は日本そのもののように見えていた。

しかし一八五三年、ペリーの黒船来航を契機として幕府の権威は揺らぎ、やがて明治維新へと至った。

翻って現代世界を見ると、「西洋人が文明を作った」「西洋近代文明なしには世界は発展できない」という価値観が広く存在している。

これは、いわば現代の「近代西洋幕府」である。

ならば、その価値観を根本から問い直す新しい「黒船」が必要となる。

その鍵をわれわれは、自然と神秘を尊ぶ神道精神に見出す。

神道においては、山川草木をはじめとする自然そのものに神性を見出す。

そこでは、人間が自然の主人として君臨するのではなく、人間もまた自然の中に生きる一存在として捉えられる。

これは、人間の知識を絶対視し、自然を支配の対象としてきた近代文明とは異なる世界観である。

科学が説明できないものをすべて否定するのではなく、人間の認識を超えた自然の神秘に畏敬の念を持つ。

この精神こそ、現代文明が見失ったものを取り戻すための重要な原動力となる。

われわれは、二百三十年前に形成された近代西洋文明の価値観を絶対視するのではなく、日本固有の精神文化を見つめ直さなければならない。

第四章 新文明闘争――自然と人類が共存する世界へ

われわれが目指すものは、単なる国家間の覇権争いではない。

日本が本来あるべき姿を取り戻し、神道精神を高く掲げ、新しい文明のあり方を世界に提唱することである。

「科学」そのものを否定するのではない。

科学を万能の価値基準とせず、人間の知識には限界があることを認め、自然・生命・神秘に対する畏敬を文明の中に取り戻すのである。

人間が自然を支配するのではなく、自然の中で人類が生き延びることのできる環境を設計する。

そのためには、人類と自然を切り離して考えるのではなく、全地球的規模で新たな文明の原理を構築しなければならない。

これこそが、われわれのいう「新文明闘争」である。

日本がその精神的原動力となることを、われわれは自覚しなければならない。

他国の顔色を窺い、既存の価値観に従うだけでは、自主独立を実現することはできない。

自ら考え、自ら決断し、自らの決断に責任を負う。

その自立精神を国家の基礎とし、自然と人間の新しい関係を世界に提示する。

われわれはその覚悟を持ち、さらに邁進していく。

日本民族こそが、神道精神を基盤として覚醒し、自然と人類が共存する新文明を切り拓け。

bottom of page