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女性への尊厳​

 

女性観と自己形成

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 私は、女性と男性について考える時、まず「両性あってこそ生物の生存維持が成り立つ」という大前提から考えます。

 女性だ男性だといっても、両性成り立たねば生物の生存維持はできません。その意味では両性優劣などありえないし、更に一個の人間としては全く同じ立場と考えます。

 男女は対等。それぞれの長所がある。

 しかし、特に出産育児といった民族の種の保存にとって極めて重要な役割を担うのは、男性には絶対真似のできない女性の特権に他ならないものです。

 私は、わが党員や女性会員、支援者に対しても、女性だから特別扱いするという考え方はとっていません。同じ一個の人間として対応しています。

 その一方で、男性なら「男性らしさ」、女性なら「女性らしさ」には敬意と魅力をもち、その特徴を更に伸ばすよう指導しています。

 女性なら、花がミツバチを寄ってこさせるように、男性を魅惑幻惑させる華美を持つは当然。

 しかるに男性は、その華を獲得すべく生存競争をする。

 オスの孔雀が羽を広げ、オスライオンが牙を剝いて死に物狂いで闘うように、人間にもこのような動物的生存闘争の遺伝子は例外なく存在する。

 それは「近代人権思想のベール」で尤もらしく覆われているが、いつでも飛び出してくるのです。現に、今でも殺人や傷害事件の多くが、この本能の爆発に起因するものが多い。

 故に、この本性宿痾である己の特長は、己に課せられた天命であり、厳粛な使命であることを、自分自身明確に理解し言動する必要があるのです。

 己の両刃の特徴を理解せず、闇雲に相手の領域に踏み入ることで、男女平等という誤れる風潮があります。

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「男女平等」と「男性化」

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 女性側に目を向けてみると、共産主義思想の如く誤った平等に被れた一部が、声高々に男性と同じ事が出来る幻想にかられた「男性化」を「男女平等」権と履き違えている。

 これを換言するなら、自ら女性を男性に対して劣等と認識する誤った思考に過ぎません。

 それを度外視し、賃金、地位面での劣等性を自らの実力で獲得するのでなく、「劣等特権」を主張することで男性社会からお涙頂戴せんと、他力本願の格差是正をしている。

 勿論、性別での不当差別は断じて許されるものではなく、性別関係なく個々人の能力に見合ったものにすべきであるは至極当然です。

 私が求めているのは、単純に男性と女性を同じ型にはめることではありません。

 男女は一個の人間として対等である。

 そのうえで、それぞれの性が持つ特徴を自覚し、その長所を伸ばしていく。

 私は、これが本当の意味での男女のあり方であると考えています。

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セクハラと自己防衛

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 男は女の「魅力」「幻惑」に対しては全くの無力です。まさにイチコロです。

 一部逆上せ上がったオスが、その地位や肉体的優越を利用し、「か弱いメス」を餌食にしようと狙う。

 それから逃れるにはオスの自制心に任せるか、暴走を抑制する強力な「暴力」が存在すればこそ、女性蔑視虐待はコントロールでき得るかもしれません。

 しかし、二十四時間監視するわけにもいかない。

 更に一部女性の「油断」「わきの甘さ」により、狂ったオスの餌食になる危険性があることは、残念ながら人類史上決して消滅することのない事象です。

 華美が魅力的であればあるだけ、ミソ糞の異性が寄ってくるは「想定内」のはず。その魂胆は明確!

 たればこそ、周囲や組織の厳格な規律を維持するだけでなく、華美の持主たる女性自身が、その魅力を磨くと同じように、他人を振り向かせる自らの「魔力」に心し、強烈な自覚を磨くことを断じて忘れてはなりません。

 己自身の意志や方向性を磨きながら、寄ってくるミソ糞を峻別し、時には断固拒絶する覚悟が必要となります。

 「嫌なのに誘いを断れない」とは、その理由は「嫌われたくない」「断ったら会社で嫌がらせされる」という勝手理由なものが多い。

 この原因は、相手のせいにした「自分の弱さ」に他なりません。

 そして重大なことは、その弱さを保持している限り、相手は更に増長し付け込むことを強烈に自覚すべきです。

 セクハラをされたが、自分が自身に騙して、セクハラ相手を「許す」「黙っている」ことで事が収まるはずもない。

 己のみならず、次のセクハラ被害者を誘引する「共犯」となることを意識せねばなりません。

 更に付記すれば、女性同士といえども、ミツバチを呼び込む同士、仲間であっても、それ以上にライバルまたは敵となる事を自覚せねばなりません。

 果たして何人がセクハラを受けたとき、女性の先輩同輩に相談して、心から親身になって対処してくれるのか?

 中には残念ながら、親身の仮面の下で、「これでライバルが消えた、ざまあみろ」と舌出してる輩も「当然」想定しなければなりません。

 私は、こうした人間関係の裏側にある感情や利害まで含めて、現実を見なければならないと考えています。

 今回は女性のセクハラを言いましたが、男性のパワハラ、いじめも同様です。

 人生そのものが先の見えない修羅場です。

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最後に頼るべきものは己自身

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 要は、他人を気にするのではなく、己自身の存在自覚こそ第一に大切にし、覚悟して日々過ごす必要があるのです。

 性別関係無く一人の人間。

 最後は自分自身しかない!

 私は、そう言いたい。

 自分を信じ、自分を誉めよ!

 それが強烈な覚悟となりうるのです。

 人間は、組織や肩書や性別によって生きるものではない。

 最終的には、一個の人間として、自分自身が何を考え、何を選び、どのような人生を歩むのかという問題に帰着する。

 だからこそ私は、女性であろうと男性であろうと、自らの特徴と弱さを知り、それを引き受けた上で、自分自身の人生を切り拓くことを求めたいのであります。

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自己形成こそ人生である

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 わが超国家主義運動は、まさに一個の自分らしい自己形成を探求し、互いに指導共助することを運動の規律としています。

 私は、運動とは単に外部に向かって主張を叫ぶことだけではないと考えています。

 まず己自身をつくる。

 己自身を磨く。

 自分の弱さを知りながら、それを乗り越えようとする。

 その積み重ねこそが、一個の人間としての自己形成につながっていくのであります。

 自分探しこそ人生。

 未来の素晴らしい自己を信じ、人生を闘争せんとする戦士に栄光あれ!

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