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為政者の意志と統治の本質

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一、法秩序は何のためにあるのか

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法はいったい誰のためにあるのか。一般には、国民が安心し、安全な社会生活を送るためのものと理解されている。しかし、この理解は事象の表層に過ぎない。

そもそも時の為政者は、己の志向する国家社会の建設維持にむけ、社会国民を一定方向に領導する。その為に権威、魅力とともに必要不可欠な手段として強制力=法秩序が存在するのである。

しかし、己の栄華を追求するあまり、ささやかな国民生活を侵略搾取する強圧行使は国民の不満反逆を噴出させることは、歴史が雄弁に物語るところである。そこで有能な為政者がとる手段は、国民生活の安心と安全を第一に施行し、不安不満を発芽させない統治手法である。すなわち、内には失業対策、福祉福利、外には戦勝、そして防衛防災の充実などがこれにあたる。

もっとも、国民ひとり一人は能力嗜好もバラバラであり、これら不平不満を満遍なく解消することなど不可能である。欲求の塊である人間は、一つの満足が充足されれば即座に次の欲望が湧いて出るもの、常に他人と比較し妬みを抱えている生き物であることを知らねばならない。統治もまた、ひとかどにはいかないのである。

 

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二、為政者が明示すべき国家像

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為政者が本来、何よりもせねばならぬことは、法秩序の依拠する国家像を国民の前に明示することである。すなわち「この為政者が一体どのような国家社会を建設し維持させたい」のか、その意志を強烈に打ち出さねばならない。その実現に向け国家国民を領導するための社会整備こそ、法秩序の存在意義であるはずである。

この為政者の国家意志があってはじめて、それを断固実行する手段たる法秩序を全国民に徹底させることができる。簡明にすれば、「法秩序とは、為政者の目指す国家社会建設の為の実行手段であり、阻害する者を排除駆逐する強制手段」に他ならない。

この構図は古代から変わっていない。現今、人権に騙され、甘く考えてはならない。国家運営とは権力行使に他ならぬという明確な事実から目を逸らしてはならない。しかし、為政者がその地位に居続けるためには、国民の多くの陰陽の支持が不可欠であり、そのためには国民の利益や安心安全を遂行し続けることが不可欠となる。

逆に、為政者の意志が薄弱であり、その目指す国家像が曖昧不明朗であれば、行先を失った国民はそれぞれ勝手バラバラに蠢動せざるを得なくなる。そして私利私欲・党利党略に狂奔し、格差、衝突、裏切りが日常化した修羅場に陥ることは自明である。落伍者・敗残者はこのゴミ溜の主人に憎悪の念を抱くだけでなく、飢えた外国勢力に魂を売り渡してまで、このゴミ溜の主に取って代わろうとするのである。

 

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三、戦後日本という国家像への批判

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いまだに八〇年前の敗戦状態が常態化した不条理なアメリカの植民地を「このうえない平和で自由な社会」と洗脳された敗戦国家像——これが現在の日本の姿そのものである。

・米国の傀儡が為政者となり、支那北鮮の手先がこれに取って代わろうとする赤白の外国の手先どもの跋扈する戦後日本。
・真の日本民族主義に立脚する祖国再建の言動に対し「平和攪乱する妄動である」と糾弾されるおぞましい売国亡国社会。
・「おかしい」と思いながら言い出せず、現状維持に無条件降伏する国家像に、一体誰が希望と魅力を感じるのか。

「日本」というと語弊があるが、「日本国政府」の展望には希望と魅力が感じられない。この植民地は既に国家機能はなく、その法秩序などは当然に植民地法であり、植民地支配の維持機能しか備わっていない。さらに外国勢力に魂を売り渡した政財界が勝手気ままに徘徊し、国民からいつでも容易に搾取しやすくする内容と言わざるを得ない。近年、益々その傾向が強まっている。

 

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四、法律条文の限界と政治に求められる道義

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しかしながら、法律条文は所詮、人間の考える言葉足らずの文言に過ぎず、複雑怪奇な人間模様すべてを照らすものではあり得ない。

第一に、わが国司法が最高裁、高裁、地裁の三審制から成り立つ事実がその証左である。
第二に、時代背景や裁判官の人格形成等、様々な不確定要因によって解釈と判定が下されてきた事からも明らかである。
第三に、過去に一度刻印されてしまった判決は、たとえそれが後日誤審であったと判明しても、後世の事件事象に極めて大きな影響力を与えている。

つまり、六法全書を脇に抱え、過去の類似判決を探し出し、これに上手く粉飾加工することに腕を磨く法曹者。過去判例の中に「正義」を見いださんと躍起となる法曹界の閉塞こそ、現今法秩序の混迷の証に他ならない。

社会正義とは、個々の文言や人の感情から勝手気ままに産み出されるものではなく、目指すべき国家像に照らした是非で判断されるものである。「それを誰がやるのか」——すなわち、不完全な法規範でも文言通りに判定処罰するのが行政官・裁判官など官僚の役割であるならば、目指す国家社会実現の意志に基づき、文言の解釈判断を下し全責任を担うのが政治の役割であるはずである。そこで何よりも政治に求められる規範は、まさしく【道義】に他ならないのである。

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題目:為政者の意志と統治の本質

本稿は、法秩序を「為政者が目指す国家社会を実現するための強制手段」と位置づけ、為政者が国家像を明示する責務と、政治における道義の役割を論じたものである。

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1. 法秩序の本質
筆者は、法を国民の安全のためとする一般的理解は表層的だと主張する。本質的には、為政者が理想とする国家へ国民を導くために、権威や魅力と並んで不可欠な強制力が法秩序であるとする。ただし、強圧的な搾取は国民の反発を招くことが歴史上明らかなため、有能な為政者は雇用対策、福祉、防衛・防災などを通じて国民の安心を優先する。もっとも、人間の欲求は際限がなく、不満を完全に解消することは不可能であるとも述べる。

 

2. 国家像の明示
為政者の第一の責務は、どのような国家を建設・維持したいのかという意志を国民に強く示すことである。その意志があってはじめて、法秩序を全国民に徹底できる。法秩序は「為政者の目指す国家建設の実行手段であり、阻害者を排除する強制手段」であり、国家運営は権力行使にほかならないと筆者は述べる。他方で、為政者が地位を保つには国民の支持が必要であり、そのため国民の利益と安全を保障し続けなければならない。国家像が曖昧であれば、国民は私利私欲に走って社会は混乱し、脱落者は外国勢力と結んで為政者に取って代わろうとするとされる。

 

3. 戦後日本への批判
筆者は、戦後日本を、敗戦状態が続く米国の事実上の植民地と見なす。為政者は米国の傀儡であり、それに対抗する勢力も外国の手先だと断じる。民族主義に基づく国家再建の主張が「平和を乱すもの」として糾弾される状況を批判し、現状維持に甘んじる国家像には希望も魅力もないと結論づける。日本国政府の法秩序は植民地支配の維持機能しか持たず、政財界は国民から搾取しやすい仕組みを作っていると主張する。

 

4. 法条文の限界と道義
筆者によれば、法文言は人間の複雑な営みを完全には捉えられない。その根拠として、三審制の存在、時代背景や裁判官の人格による解釈の揺らぎ、誤審であっても先例が後世に影響を与え続ける点を挙げる。過去の判例に正義を求める法曹界の姿勢は、法秩序の混迷の表れだとされる。社会正義は文言や個人の感情ではなく、目指す国家像に照らして判断されるものであり、官僚や裁判官が文言どおりに適用するのに対し、国家実現の意志に基づいて解釈の全責任を負うのが政治の役割である。そのため、政治に最も求められる規範は「道義」であると結論づける。

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